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テンコの小さな巣は、わたしの目には不恰好にも見えたが、なんとか出来上がった。
テンコはそこに卵を産み、あたためる。その間、しばらくテンコと喋る機会はなかったが、わたしは出窓からテンコの巣を見守った。
やがて、チリチリと餌をねだる雛たちの声が聞こえるようになった。どうやら無事に孵ったようだ。
テンコはますます忙しく、食料採取のために巣を出て行っては戻る生活を繰り返すようになった。初めての子育てに、テンコは大変そうだが、たまにわたしに気づくとチュンチュンと嬉しそうに鳴いた。
その日はうだるような暑さで、わたしは簾の陰で風を感じながら寝転がっていた。長毛種に日本のじめじめとした暑い夏はきつい。
軒下の方から、テンコの子ども達のチリチリという高い声が聞こえて来る。テンコはいないのだろうか。餌を探しに行ったのかもしれない。
そのとき、不意に雛の声が地面の方で響いていることに気付いた。
「……?」
わたしは怪訝に思って、簾の端から顔を出す。
軒下の草が生い茂っているいるところに、羽毛が生え揃ったばかりの小さな幼鳥が一羽、落っこちていた。
「……なんだ、巣から落ちたのか」
わたしはどうしようか迷った。わたしが行っても巣に戻してやることはできないだろう。しかし、放っておくわけにもいかない。
「さて、と……」
考えた挙句、簾の端の方からそっと外へ出る。テンコが戻ってくるまで近くで見守っていることにした。
幼鳥は、わたしを見て怯えたようにチリチリと甲高い声を上げた。わたしはため息をついた。
「安心しろ、捕って食ったりしない。母親が戻ってくるまで一緒に待っていよう」
わたしの言葉が通じたのかどうかはわからないが、幼鳥は危険がないことを理解したらしく、おとなしくなった。しばし、幼鳥と猫が向かい合うという不思議な光景が生まれた。
「なんだ、アンタ。その鳥、食わないのか?」
わたしはハッと顔を上げた。庭を囲む塀の上に、黒いハチワレの猫が座っていた。初めて見る顔だった。
「食わない。母親が帰ってくるまで一緒にいてやるだけだ」
わたしは答えた。野良猫と話をするのはこれが初めてだった。
わたしの返答を聞いて、黒ハチワレは鼻で笑った。
「なんだ、変なヤツ。鳥に情を抱くなんて。所詮はオレたちの餌だろう?」
「餌じゃない」
「意味がわからねえ」
「じゃあ、わからなくていい」
わからせるつもりもなかったので、突き放すようにそう言った。
すると、黒ハチワレはわたしの態度が気に食わなかったのか、馬鹿にしていた態度から急に不機嫌そうになる。
「なんだ、青二才が生意気だな。オレの名を知ってのことか?」
「他人の庭先に湧いて出て、名乗りもしない無礼者の名前なんて知るか」
「世間知らずを露呈させたな。オレは『三丁目のツートンの堕天使』こと、ハチワレの黒八だ」
……名は体を表すと、前にテンコに言った覚えがあるが、もう少しひねっても良かったのではないだろうか。あと通り名がダサいというか、この家の子どもたちの言葉で言えば「厨二」っぽい。
と、口には出さなかったが顔には出ていたようで、自称「三丁目のツートンの堕天使」とやらは犬歯をむき出しにして威嚇してきた。
「なんだ、その顔は。平和ボケした家猫風情が、オレを甘く見ていると痛い目に会うぞ」
「平和ボケした家猫風情に、そんなに犬歯をむき出しにするな。みっともない奴だな」
「犬歯と言うな! アンタも猫ならこの鋭い牙のことは『猫歯』と呼ぶべきだ。前々から不満に思っていたんだ、人間というのはどうして犬を基準にするのか。猫の方がよっぽど優れているはずだろう! 百獣の王だってネコ科だぞ! まったく、忌々しい!」
黒八は肩で息をしながら熱弁を振るった。しかし。
(わたしにどうしろと……)
以前にもテンコと同じような話をした気がするが、わたしは犬歯は犬歯と呼ぶのが素直だと思うし、百獣の王になど会ったこともないからネコ科がどれだけ優れているのかなどわからないし。
息を整えた黒八はわたしを馬鹿にするような目で見た。
「平和ボケした家猫風情には理解できない次元の話だったか。まあいい、話を元に戻そう」
ああ、そうしてくれ。
「その鳥、要らないのならオレに寄越せ」
「断る」
キッパリと。首を横に振った。一瞬でも思考することすらしなかった。
黒八はますます不機嫌になる。
「なんだ。食わない、かと言って、他人に寄越すこともしない。何がしたいんだ?」
「だから、母親が戻ってくるまで、見守っていてやるんだよ。お前みたいな野良猫だとか、蛇だとか、そういう、雛鳥の天敵に食べられないようにな」
「意味がわからない」
「野蛮な野良猫風情には理解できない次元の話だったらしいな。さっさとわたしの庭から出て行けと言っているんだ」
わたしの言葉で、黒八は怒りの沸点を超えたように毛を逆立てた。
「誰が野蛮だと!」
「お前だよ。飛べもしない、歩くのもままならない幼鳥を、たまたま巣から落ちてしまったのをいいことに捕って食おうだなんて、野蛮じゃないか」
「平和ボケした家猫サマにはわからないだろうな。自然界は弱肉強食。野蛮だろうがなんだろうが、生きていくためには食わなければならない。だいたい、家猫サマの食べているキャットフードだって、魚や鶏の肉が主原料じゃあないか。生きるということは殺すことなんだよ」
正直なところ、わたしは、返す言葉に困った。確かに、おかしなことをしているのはわたしの方かもしれない。わたしが雀を食べないのは、家の中に戻ればこの家の次女が美味しいキャットフードやおやつを用意してくれているからかもしれないのであって、そんなわたしが雀の幼鳥を目の前に何もしないでいて、あまつさえ「見守っている」だなんて偉そうに言うなんて、黒八のような次の食事の保証もない野良猫にとっては、喧嘩を売られているようにしか見えないだろう。
「生きるということは殺すこと」。その通りだ。キャットフードしか食べてこなかったわたしには、それまで薄ぼんやりとした言葉だった。キャットフードを作るのにだって魚や鶏が使われていて、わたしは狩りをせずともそれを食べられるから、生きるために命を奪っているという感覚がよくわからなかったのだ。しかし、わたしもまた食物連鎖の中にいることには違いない。テンコだって虫を食べて生きている。それなら、その子どもが野良猫に食べられても、それが因果というものなのかもしれない。ここはわたしが引いて、何も知らなかったふりをして家に戻り、黒八が幼鳥を咥えていくのを黙認するのが自然界の不文律なのかもしれない。
「そうだな、野蛮だと言ったことは謝罪する。お前の言い分は多分、正しい」
わたしは黒八に謝った。黒八はニンマリと笑った。
しかし、それでも、譲れないものがあった。
「けれど、わたしはそれでも、あの雀の子どもであるこの幼子だけは守りたい。自然の摂理に反していたとしても、だ。これは、」
高貴なる者の義務だとか、ノブレスオブリージュだとか、そういう格好いいものではなく、ただ単純に、
「わたしの勝手だ」
黒八は怪訝そうな顔をしている。
わたしにも、自分がなにを言っているのかわからなかったというか、正直なところ、論理が無茶苦茶だという自覚はあった。
「……平和ボケした家猫サマの考えることはわからねえや」
黒八はそう言い捨てて、塀の向こうに去ろうとした。
わたしは訊ねた。
「いいのか?」
「納得なんてできるか。だが、そんな幼鳥一羽捕らえるために、お前みたいなバカと喧嘩しなきゃならないなんて、コストとベネフィットが釣り合わねえんだよ」
損得勘定はできたらしい。わたしも喧嘩は御免被る。
黒八はあっさりと立ち去って、それ以来、わたしの前に現れることもなかった。おおかた、馬鹿とは付き合っていられないということだろう。今回はそれで良かったのかもしれない。
わたしは隣にいる幼鳥に、「もう大丈夫らしいぞ」と声をかけた。
しばらく待っていると、虫をくちばしに挟んだテンコが戻ってきて、わたしたちが一緒にいるのを見て目を丸くした。すぐに状況を理解したらしく、「迷惑かけてごめんなさい」と謝ってきた。
わたしは首を横に振った。
「わたしが勝手にしたことだ」
幼鳥たちはすくすくと育ち、しばらくすると飛べるようになった。あの芝生に落っこちていた幼鳥も、テンコのスパルタ指導によって立派な雀になった。
そして、孵化してから三週間が経とうとする頃、テンコに見守られながら、群れへと飛び立って行った。
「寂しくなるな」
賑やかな鳴き声の聞こえなくなった巣を見て、わたしは呟いた。
テンコも「そうね」と返した。どこか、わたしを気遣っているように思えたのは、気のせいだったのだろうか、それとも、自分の行く末を頭のどこかで悟っていたからであろうか。
だんだんと日が短くなり、秋の訪れを感じさせるようになった。
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